平泉の文化

平泉とその周辺には、平安時代末期に奥州藤原氏が築いた中尊寺金色堂や毛越寺浄土庭園に代表される仏教寺院や庭園など多くの遺跡や景観が現在まで守り伝えられています。

建造物

●中尊寺金色堂(平泉町)●

堂の内外に金箔を押した皆金色の阿弥陀堂で、ご本尊は阿弥陀如来、その前に観音菩薩、勢至菩薩、左右に三体ずつ列立する地蔵菩薩、最前列には持国天、増長天がならんでいる。そして中央の須弥壇の中に初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右に三代秀衡の御遺体と泰衡の首級が安置されている。

●金色堂覆堂(平泉町)●

金色堂覆堂は昭和37年から昭和43年に行われた金色堂解体修理(昭和の大修理)に伴い現在の場所に移築された。
正応元年(1288年)に鎌倉幕府によって建てられ、金色堂を風雪から護り続けていた。

●中尊寺経蔵(平泉町)●

国宝である「紺紙金字一切経」を納めたお堂で、「中尊寺建立供養願文」によれば、天治3年(1126)頃の建築とされ、当初は二階瓦葺きだったのが、建武4年(1337年)の火災でその二階が焼失し、その古材で再建し現在の単層の建物となったと伝えられる。「紺紙金字一切経」は、昭和30年に讃衡蔵が建設されると、そこへ移された。

●白山神社能舞台(平泉町)●

中尊寺鎮守のひとつで境内の北方にあり、嘉永2年(1849年)の焼失後、同6年(1853年)に仙台藩主伊達家により再建した。
茅葺屋根が美しく、完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一といえ、古刹中尊寺の古来から続く芸能の場としても貴重な遺構である。8月14日には喜多流の能、和泉流の狂言を披露する中尊寺薪能、そして春の藤原まつりで古実式三番と神事能、秋の藤原まつりには能楽が中尊寺の僧侶によって奉納される。

●願成就院宝塔(平泉町)●

五輪塔の原始型ともいわれ、仏教で説く万物の構成要素である地・水・火・風・空の五輪思想に基づき造られた。

●釈尊院五輪塔(平泉町)●

仁安4年(1169年)と刻まれ、在銘の石塔としては我が国最古のものとされる。

史跡

●中尊寺境内(平泉町)●

中尊寺は天台宗の東北大本山で、嘉祥3年(850年)に「入唐八家」の一人でもある、天台宗の高僧慈覚大師(円仁)によって開かれた。

その後、「前九年の合戦」「後三年の合戦」といった戦乱で戦没した人々の霊を慰め、仏国土を建設したいという趣旨のもと、奥州藤原氏初代清衡によって多宝寺、二階大堂などが造営された。現在境内には、創建当初唯一の建造物、国宝「金色堂」をはじめ、経蔵、金色堂覆堂、願成就院宝塔、釈尊院五輪塔、白山神社能舞台といった重要文化財が伝えられ、仏像、経典、美術工芸品など多くの国宝、重要文化財が「中尊寺讃衡蔵」に収蔵・展示されている。

●毛越寺境内附鎮守社跡(平泉町)●

毛越寺は天台宗別格本山で、中尊寺と同じく嘉祥3年(850年)に慈覚大師(円仁)によって開かれた。

その後、奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡によって金堂円隆寺、嘉祥寺などの壮大な伽藍が造営され、金堂円隆寺は「吾朝無双」と評されるほどのものだった。度重なる災禍により惜しくも伽藍を焼失してしまったが、建物跡はほぼ完全な形で保存され、大泉が池を中心とした浄土庭園はその文化的価値の高さから、特別史跡、特別名勝の二重指定を受けており、日本有数の浄土庭園として知られている。

また、毛越寺のとなりには、基衡婦人が建立した観自在王院跡があり、現在は、浄土庭園の復元整備が行われて史跡公園になっている。

毛越寺の境内では、正月の20日には、二十日夜祭が行われ、無病息災や延年長寿を祈って「延年の舞」が奉納され、また、5月の第4日曜日には、優雅な平安時代の宴を再現した「曲水の宴」が開催されるなど、平泉独特の珍しい行祭事も行われている。

●無量光院跡(平泉町)●

奥州藤原氏三代秀衡が、宇治平等院の鳳凰堂を模倣して建立した寺院である。その遺跡の殆どが水田化し、池跡、中島、礎石のみが残っているのみだったが、調査の結果、中央の阿弥陀堂の柱間や翼廊の左右が鳳凰堂よりひとまわり大きかったことがわかっている。南北に長い伽藍の中心線は、東門、中島、本堂を貫いて、その先の金鶏山と直線で結ばれ、彼岸の頃本堂に向かうと、ちょうど背後の金鶏山に夕日が沈み、まさに西方極楽浄土の世界が体感できる。

●柳之御所遺跡(平泉町)●

高館の麓から北上川沿いに段丘が広がる一帯は、古来より初代清衡、二代基衡の屋敷跡と伝えられてきたが、発掘調査をしたところ、遺跡から夥しい数のかわらけ(貴族が儀式などで用いた使い捨ての土器)や高価な中国産の陶磁器、国産の陶器、銅印などが多量に出土した事や、多数の建物や井戸、便所などの遺構が見つかっている事から、「吾妻鏡」に記された、三代秀衡の時代の政庁である「平泉館」があったと推定されている。
出土した遺物などは遺跡に隣接する「柳之御所資料館」に展示されている。

●金鶏山(平泉町)●

中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置し、まちづくりの基準となった山で、平泉を守るため雌雄一対の黄金の鶏を埋めたという伝説が残っている。山頂には歴代の藤原氏により経塚が設けられており、金鶏山が信仰の山として意識されていたことを示している。
また登り口付近には源義経の妻子の墓と伝えられる五輪塔の一部がある。

●達谷窟(平泉町)●

延暦20年(801年)坂上田村麻呂が蝦夷討伐の戦勝記念と毘沙門天の加護への感謝を込め、京の清水の舞台を摸ねて造営したと伝えられている。当時、達谷窟には悪路王という蝦夷の首領が住んでおり、田村麻呂に征伐されたという伝説が残っている。1189年には、源頼朝が奥州合戦の帰路に参拝したという記録も残っている。

また、毘沙門堂の西側の岩壁には源義家が前九年・後三年合戦の戦没者を弔うために、弓弭を以って刻んだと伝えられる大日如来が浮き彫りになっている。

●白鳥舘遺跡(奥州市)●

奥州藤原氏に先行する安倍頼時の八男・白鳥八郎則任の居城跡と伝えられている遺跡で、蛇行する北上川に囲まれた地形から、北上川の要衝として河川交通の監視などを行っていたところと考えられている。10~16世紀までの約600年間にわたり断続的に機能していたことが判明しており、中世城館の特徴を良く表している。

●長者ヶ原廃寺跡(奥州市)●

藤原秀衡の御用商人金売吉次の屋敷跡と伝えられてきたが、発掘調査の結果平泉前史の寺院跡であることが判明した。この遺跡は、仏教文化の形成が安倍氏の時代にすでに始まっていたことがうかがえ、続く平泉文化において浄土思想が隆盛する歴史的な背景を物語る寺院跡である。

●骨寺村荘園遺跡(一関市)●

中尊寺に現存する「陸奥国骨寺村絵図」(重要文化財)にほぼ近い形で、現在も中世社会の荘園の面影をとどめているところから、全国的にも貴重なものとして早くから注目を集めてきた。

骨寺村は、中尊寺の僧である「自在房蓮光」が「紺紙金銀字交書一切経」の完成に伴い、清衡から労をねぎらい与えられたもので、その業績から蓮光は経蔵別当に任ぜられた。以来室町時代まで経蔵別当領として伝えられている。

名勝

●毛越寺浄土庭園(平泉町)●

平安時代中期以降に発達した浄土式庭園のひとつで、広大な大泉が池を中心に、周囲には多数の建物(金堂・経蔵・南大門跡など)の礎石が残る。

「大泉が池」は、中央に中島、東側には、優美な海岸線の風情を漂わせる洲浜が入江を造り、南東には、荒磯を表す高さ2mの立石を中心とした出島がある。また、南西には荒々しい岩肌が断崖の風情を漂わせる高さ4mの築山がある。 北東岸に注ぐ遣水は、日本最大長を誇り、発掘調査によって、12世紀に造られたままの状態で地下に残されていたことが明らかとなり、1988年に復元整備された。

国内に現存する平安様式の庭園のうち、浄土庭園の完全な遺構を現代にまで伝えたものとしては、全国的にも唯一のものである。

●旧観自在王院庭園(平泉町)●

奥州藤原氏二代藤原基衡の妻が建立したと伝えられ、毛越寺に隣接し現在は史跡公園となって憩いの広場となっている。
整備された南門跡、西側土塁、西門跡などの他、美しい芝生の中ほどに「舞鶴が池」が復元されている。
「舞鶴が池」は平安時代の作庭手法をそのまま保存した全国でも希少な池遺構で、四隅は丸く、池の周囲には荒磯様の石組み、州浜、中島、大阿弥陀堂跡、小阿弥陀堂跡があり、さらに西土塁脇には、牛車の駐車場であった「車宿(くるまやどり)」の跡がある。
毎年5月の春の藤原まつりには、この場所で基衡の妻の死を弔う葬列を模した奇祭「哭き祭」が行われる。

重要文化的景観

●一関本寺の農村景観(一関市)●

磐井川流域の河岸段丘に展開する農村地帯で、特に中世平泉の中尊寺経蔵別当領だった骨寺村に起源を持ち、14世紀の絵図に描かれた中世の村落景観が良く残り、また、中世以来の農業を基本とする土地利用形態が、現在まで継承されている。

この地域独特の気候・風土を踏まえた農耕と居住の在り方を示す貴重な文化的景観である。

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