
秋の藤原祭り
平安時代に藤原経清(ふじわらつねきよ)と安倍頼時(あべのよりとき)の娘との間に生まれた子、後に奥州藤原氏初代頭首である「藤原清衡」によって平泉文化が華開く。
「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」は前九年・後三年の二つの大合戦を、悲惨且つ数奇な運命を強く生きながら、後の平泉文化の繁栄の礎を築く。
「藤原清衡」のおかれた状況、立場は正に想像を絶する過酷さだったであろう。しかしながら清衡は目で見る事が出来ない不思議な力に気付かずにその運命を委ねる様に、またはその力に導かれように降りかかる不運を克服していった。
天台宗東北大本山(山号:関山(かんざん))「中尊寺」は、嘉祥3年(850)天台宗の高僧である「慈覚大師」により創建され寺域は現在、特別史跡に指定されている。
後に、清衡はその「中尊寺」に数々の堂塔を造営する。
全盛期には寺塔(じとう)四十余、禅房三百余の規模であったとされている。
度重なる火災により堂塔の多くは失われたが、「金色堂」のみが創建当時から残って、その神々しい造形美は、観る者を圧倒的に魅了させている。
俳聖「松尾芭蕉」も、「奥の細道」の中で「五月雨の 降残してや 光堂」と詠んでいる。
堂内は床・天井・壁面に至るまで、輝かしい金で埋め尽くされ、堂内には透かし彫りの金具・薪絵(まきえ)金色を引立たせている夜光貝の螺鈿(らでん)で荘厳(しょうごん)されている。
清衡が当地を清め、民の繁栄、奥州藤原氏の繁栄を切に願い「金色堂」をはじめとする、幾多の神社仏閣を建立したのが伺える。
金色堂新覆堂は昭和40年に建立された。
鉄筋コンクリート造りで空調設備も整えられ、金色堂を風霜から保護している。
時代は二代目「藤原基衡(ふじわらのもとひら)」に移る。
特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けている天台宗別格本山「毛越寺」(山号:医王山(いおうざん))は、「中尊寺」と同じく嘉祥3年(850)天台宗の高僧である「慈覚大師」により開かれ、後に清衡の息子である基衡は「毛越寺」に、息子の三代目秀衡と共に伽藍を造営する。
全盛期には堂塔四十余、禅房五百余あったとされている。
こちらも度重なる火災により当時の伽藍(がらん)は全て失われたが、「大泉が池」を中心として現在も「浄土庭園」という従来の日本庭園とは一線を画す極楽浄土を彷彿させる異空間をほぼ完全な状態で残している。
庭園には山水が蛇行しながら池に流れ込んでいる「遣水(やりみず)」が綺麗な曲線美を庭園内に描いている。「遣水」の水底には玉石を敷き詰め、水の流れをより複雑にし、玉石や蛇行した川壁に流水がぶつかり心地よい音を奏でる。
毎年5月の第4日曜日に開催される「曲水の宴(ごくすいのえん)」は、「遣水」に盃を浮かべ、その流れに合わせ和歌を詠む平安時代の優雅な遊びが再現される。
その他1月1日には「元朝詣り」、1月20日には「毛越寺二十日夜祭」、5月連休中にも「毛越寺哭き(なき)祭り」、6月から7月にかけ「毛越寺あやめ祭り」
9月には「毛越寺萩まつり」が開催され毎年多くの人で賑わっている。
大泉が池を中心とする「毛越寺浄土庭園」は、国より特別史跡、特別名勝の二重指定を受けています。
毛越寺浄土庭園は塔山を背景に、大泉が池の周囲には州浜(すはま)や築山(つきやま)、出島(でじま)、飛島(とびじま)などの石組みが配置され、自然の景観を取り入れた作庭技法が随所に示されています。
時代は三代目「藤原秀衡(ふじわらのひでひら)」に移る。
基衡の息子である秀衡は、宇治の平等院鳳凰堂に模して「無量光院」を建立し、現在は特別史跡に指定されている。
秀衡は兄である源頼朝により疎外され、安寧(あんねい)の地であろう平泉に追われて落ち延びて来た「源義経」にとって最大の庇護者として迎え入れた人物である。
義経物語が最大のクライマックスを向かえるにあたってのキーマン的存在である。
以上後の四代「藤原泰衡」まで約100年間の歴史で、奥州藤原氏が平泉に現世の極楽浄土という、まさに生きとし生けるものにとって究極の理想郷を再現したのである。
「源義経」は平治元年(1159年)に源義朝、常盤御前の間に生まれる。 奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝の異母弟でもある。
源義朝の九男として生まれ、幼名は牛若丸、仮名(けみょう)は九郎、実名は義經(義経)である。
頼朝の平家打倒の目ろみに乗じて、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いといった数々の合戦を経て平家を滅ぼし、その中心的な人物であったが頼朝の断りもなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買ってしまい、後に疎外され、追われる身になってしまうという正に数奇な運命を辿る事になる。
義経はその頼朝の追手から逃れようと自分にとって最大の庇護者である藤原秀衡を頼って平泉に落ち延びた。逃避行の際には山伏の姿にやつしていたという。
義経が平泉に身を置いてから間もなく秀衡が文治3年(1187年)冬に没し、その後義経にとって安寧の地と思われた平泉に暗雲が立ち込める。
義経にとって更なる数奇な運命が待ち構えていたのである。
秀衡の実子である泰衡は、義経の兄である頼朝から脅迫・圧力を受け、それに屈し衣河館に身を寄せてた義経を急襲し自害に及ばせた。
しかしながらその後結局奥州藤原氏も頼朝によって攻められ、滅亡する。
四代泰衡は、頼朝の狡猾的な策略により、清衡が築き上げ、基衡、秀衡が昇華させた平泉文化を自らの手で火を放ち滅ぼしてしまったが、泰衡も頼朝からの度重なる圧力、攻撃と藤原家内で義経を巡っての分裂など、度重なる重圧に耐える事が出来なかったのではなかろうか。
その後、色々な義経の「その後」の風説が流布し、実は生き延びて北へ更に落ち延びていたという説もあるようだが、その真実は明らかでない。
高館の頂上には、仙台伊達綱村公(せんだいだてつなむら)が天和3年(1683)に建立した義経堂があり、堂内には義経の像が祀られています。
北上川の対岸から高館を遠望するとその樹木に包まれた丘の上に、義経堂が見えます。薄倖(はっこう)の将・源義経が、そこに佇むかのような風情があります。
公開3/16~11/20